【バンドヒストリー】2004年その② -3人のオリジナルメンバー-
2014年6月 ひょんなきっかけからバンドを結成してみたは良いものの、当然のごとく具体的に何をどう始めれば良いのか、右も左もわからない状態だった。
手始めに学校の文化祭に出たり、ライブハウスのブッキングに申し込んだりするという誰もが通る道などと知る由もなく、僕らは勝手に中学の卒業式に体育館で同級生の前でライブをすることを目標とした。
そしてこれまた普通なら好きなバンドの曲をコピーすることから始めるところを、僕らはなぜかいきなり自分たちのオリジナル曲を作ることから始めた。
主な練習場所は学校の音楽室や、近所の河川敷の橋の下(僕らはそこをシルスタ堤とよんでいた)で、初めてリハーサルスタジオという場所に足を踏み入れるまでには、さらにそこから半年ほど時間を進めなければならない。
とにかく何もかもがレールから外れたやり方で始めてしまったため、僕らはかなりの遠回りを強いられることになった。
しかしながら、やはり早くからオリジナル曲を作り始めたことは本当に良かったと思う。
当時2人は同じクラスだったトオルとムッチーの担任が音楽の先生で、僕らが音楽室で練習(曲作り)する度に覗きに来てくれて、音楽理論のいろはを教えてくれたものだった。
そして音楽室に通うようになってからは、最初は6人いたメンバーも気がつけば僕とトオルとムッチーの3人に減っていたが、ピアノを習っていたおかげで音感が養われていたムッチーが曲を書き、折しも一人で詩を書き始めていた僕が歌詞をつけて、承認欲求の塊だったトオルがそれを歌う、というのはある意味理にかなっていたので、落ち着くべくして落ち着く3人になったのだと思う。とは言え、この3人が16年経った今もなお一緒にバンドを続けていようとはこの時誰が想像できただろうか。
音楽室である程度の曲ができてきたら、今度はシルスタ堤で演奏の練習を始めた。
ムッチーは家にあったボタンを押せば自動演奏が始まるようなおもちゃのキーボードを、僕は家にあったお父さんのアコギを、トオルは生まれ持った鋼のメンタルを持ち寄り、放課後クラスメイトたちが受験勉強に明け暮れる中、僕らは毎日のように音楽に時間を費やした。
僕の記憶が正しければ、確か「公開練習」という名目で、友達をそこに集めて簡単なライブみたいなこともやった気がする。それでもまだ、技術も機材も完成度も、バンドというものには程遠いレベルだった。
季節は秋を越え、冬になると次第に外(シルスタ堤)での活動が減り、音楽室にも通わなくなっていった。
実際僕もその頃にはギターを封印し、受験勉強に集中していた。
受験が終わり、高校生になって進路もバラバラになれば自然消滅するかと思われたバンドがその後も存続したのは、実はこの時期に勉学をいち早く放り出しギターを購入して曲を書き続けたトオルと、お小遣いを投じて本格的なシンセサイザーを手に入れたムッチーの行動力のおかげかもしれない。
僕より先に進路を決めた二人は僕の受験が終わるのを心待ちにし、一足遅れて進路が決まった僕も人生で初めてのエレキギターを購入した。
かくして進路こそ分かれたものの、3人ともそれぞれの機材が揃い、中学を卒業して(言わずもがな卒業式でライブをするという最初の目標は人知れず幻と消えた)僕らは初めてスタジオという場所の門を叩くことになる。
続く。
PS. 上述の通り、結成直後からオリジナル曲ばかりに打ち込んでいた僕らは、その後のキャリアにおいてもほとんどコピー曲をプレイすることはなかった中、数少ないコピーを楽しんだ曲の一つがFountains of WayneのStacy's Momです。
コロナウィルス感染により亡くなったアダム・シュレンジャーに心からお悔やみ申し上げます。
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